• 猪臥山

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    猪臥山

    1.期間 2019年3月22日 8:30〜12:30

    2.天候 曇から雪

     ほとんど休みらしい休みもなくひたすらに働いてきて、ようやく待ちに待った定年を迎えた。定年になったらあれもやろうこれもやろうと意気込んでいたのだが、定年になったのだからあれもやれこれもやれとなかなか見逃してもらえない。
     それでも3月下旬、教諭最後の勤務日を終えたら、せめて日帰りででも山に行こうと思っていた。体力も年相応に落ちているので、近場であまりきつくなくて雪が楽しめる山。
     だったら猪臥山だなあ。
     岐阜の酒井昭市さんが新人を連れて冬山研修を実施した山。その折の記録に「山名の『猪臥山』は確かめたことはないが、多分、山麓から仰いだおおらかな山容から名付けられた」と書いている。なるほど確かに東から見た山の様子は満腹で寝ている猪に見えなくもない。もっとも、そういう猪を見たことはないのだが。
    『岐阜県地名大辞典』によれば、

    「いぶせやま 猪臥山〈清見村・古川町〉『いぶしやま』ともいう。吉城郡古川町と大野郡清見村の境にある山。標高1519m。(中略)山名の由来は宮川流域の西側にはイノシシが生息しており、猪臥山付近にも猪道があることによる」なるほど。

     さて、猪臥山には今回彦谷側から入る。他にはだれもいない駐車場で身支度。ストック持って雪上を歩き出して数歩でヒザまでズボる。固そうなところを選びながら歩いて行くと、大丈夫と思ったところでたいていズボる。うんざり。それでもスキーのトレースをたどってみるとなんとかズボりの回数を減らせた。
     そのうち林道と合流。いくつもの足跡をたどりながら進んでいく。今日は下降気味の天気らしいが、今のところときおり陽がさしていて、寒くはない。快適な1日の予感に心うわつく。もちろん、これは後で裏切られることになる。

     だれにも会わないまま尾根に取り付き、固く締まった足跡を滑らないように慎重にたどっていると、なにやら後ろで音がする。振り向くが樹々の間からは何も見えない。クマかイノシシか。山岳会の木下さんに教えてもらった対処法を思い出す。低い声で「ウ〜〜〜」とうなり、これをだんだんと高めていく。樹木のかげから音が近づいてくる。「ウ〜〜〜」
     スノーシューを履いて調子よく歩いていたら、妙なうなり声をあげているおじさんがいた、ということを彼はどのように感じただろうか。きっとそのおじさんは顔を赤くしていたりもするのだ。
    ちょうど背伸びでもしていたかのようにごまかしたが、効果あったかどうか。軽く会釈した彼はそのまま追い抜いていった。ああ、スノーシューはいいなあ、とそのことだけを考えて、恥ずかしさをおおいかくす。

     尾根を詰めて樹林帯が切れると、猪臥山はまだまだ雪山だ。風も吹くし雪も降ってくる。ミニチュア雪庇なんかもあったりして、いい雰囲気を出している。雪から顔をのぞかせている頂上の標識にタッチして、雪も風も強まってきたので、さあ帰ろう。スノーシューマンはそのまま尾根を周回するようだが、こちらは天下のヘタレマン、頂上下の祠に手をあわせ来たときと同じルートを戻ります。 
     尾根を下りてしまえば後はただ林道をたどるだけ。ところがこれが大変だった。下では尾根の風雪など関係なしに黙々と春を進めていたらしく、グザグザの腐れ雪が待っていた。表面はやや固め。乗っかると、いけたとおもった瞬間にズボッ。延々とこれを繰り返し、これが今回最大の難所だった。
    それでもなんとか駐車場にたどり着くと、スノーシューマンはすっかり支度を済ませて車で出ていくところだった。はは、ごきげんよう。

     ところで、飛騨の小鳥郷や川上郷、白川郷ではかつて里の収穫だけでは足りず、山の中につくった焼畑で雑穀を育てて生活していた。そして、この三郷は猪の多いところだった。だから、秋になると猪から作物を守るため、家は老人や子どもに任せ、村中の男も女もそれぞれに山畑の脇に簡単な小屋掛けをして、一晩中番をしていたそうだ。鳴子を鳴らしたり、声をあげたり猪笛を吹いたり。そうやって、村中あげての夜守りをするから、里は手薄となる。そして、猪はその里の畑を荒らしていく。かくて、村人は山と里の畑を守り抜くために、寝ることもかなわなかったということだ。山村で暮らすということは大変なことだ、と『斐太後風土記』の筆者は書いている。
    そんなことを知ってみると『猪臥山』とは、いろんな思いのこめられた名前だと思われてくる。足がズボったくらいで音を上げていてはいかんなあ。
     さて今年は定年後元年、小さくても味のある山に登り続けていきたいものだ。

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  • ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(参考資料)

    【参考文献】

     【文中引用】

      ⑴ブラザー軒のウェブサイトから。今はこのサイトも閉鎖されている。

      ⑵「仙台七夕まつり協賛会」ウエブサイトによる。

      ⑶『菅原克己全詩集』別冊栞中のインタビューから。

      ⑷映画『タカダワタル的』のDVDから筆者採録。

      ⑸『全詩集』年譜

      ⑹「『日の底』未刊拾遺詩篇」『全詩集』所収

      ⑺菅原克己の第一詩集。1951(昭和26)年12月。木馬社

      ⑻『遠い城』西田書店

      ⑼『現代詩文庫49菅原克己』思潮社。1972年。

      ⑽『朝日新聞に見る日本の歩み』朝日新聞社。1974年。

      ⑾『遠い城』

      ⑿「初期拾遺詩篇」『叔父さんの魔法』朔人社。1975年

      ⒀『手』所収

      ⒁「詩と現実の間」『遠い城』

      ⒂菅井幸雄『築地小劇場』未来社。1974年。

      ⒃浅野時一郎『続 私の築地小劇場』芸能発行所。1981年

      ⒄『築地小劇場』

      ⒅『築地小劇場』

      ⒆藤本恵子『築地に響く銅鑼』など

      ⒇菅原克己『詩の鉛筆手帖』土曜美術社。1981年。

      ㉑『全詩集』年譜

      ㉒栗原澪子『『日の底』ノート 他』七月堂。2007年。

      ㉓「野」については、前述の堀川正美や栗原澪子にすぐれた論考がある。

     

     【その他参考文献】

      柴田翔『詩に誘われて』ちくまプリマー新書

      今野十志夫詩集『人物史詩 櫻隊』

      キルション『風の街』杉本良吉訳 改造文庫

      詩誌『列島』

      谷敬「菅原克己『日の底』にひそむ光の目つぶし」『谷敬詩集』新・日本現代詩文庫

      小沢信男「菅原克己」『通り過ぎた人々』みすず書房

      岩田宏「菅原さんの仕事」詩学1988年7月号

      高橋たか子「弟、菅原克己のこと」詩学1988年7月号

      『鮎川信夫著作集5 文学論・芸術論』

      『現代詩の展望 戦後詩再読』思潮社


  • ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(8)

    【ブラザー軒に還る】

     さて、戦後しばらくの間自分を見失っていたという自覚をもった彼は、その後どのように詩と向き合っていったのか。私は『日の底』にいくつかの方向をみる。ひとつは「ブラザー軒」、そしてもうひとつは「野」だ。※㉓

     

     小麦は

     こそばゆい穂さきをしきりにうるさがり、

     雲雀はまだ土くれのなかで

     誇らしげな自分の声に追いつこうと

     せっかちに喉毛をふるわす。

     

     そこでは、黒い地べたでさえ、

     空は自分だと考えている。

     

    そして、ぼくは気づく、

    決して見ることのできぬ背後で、

    道が道自身を帯のように巻きながら

    ぼくの通過をすばやく消してしまうのを。(「野」部分)

     

     自分の中に自分ではないものがある。または自分ではないものが自分だと思えてしまう。自分は何なのか、自分のいるべき場所はどこなのか。その不安の所在と理由を考え抜こうとしてこの詩はある。自らと深く向きあおうとしているが、まだその不安にとりつかれたまま身動きできなくなっている。「野」は当事者としてその苦しみを表現する。

     もう一つの方向が「ブラザ—軒」だ。この詩では、「ぼく」は、どこにも行こうとしていない。「ふたり」との間に親しみはあるが、あらかじめ切りはなされていることを理解している。離れていく悲しみを耐える意識がはっきりしている。去って行くふたりとはちがう道、ちがう時間に取り残される自分の意識がみえる詩だ。そして、新しい道に一歩を踏み出すための決意をゆるやかに指し示すものだ。

     ここにあげた二つの詩は、まさに〈自分の痛み〉と正対しようという意識のもとで生まれてきたものだ。自分の痛みとは何か、それはどこからきたものなのか。その問いに誠実に向きあう時、この詩たちが生まれてきた。

     つまり、自分を見失っていたという苦しい事実に正対することでしか、ほんとうの自分にはたどりつけず、もちろん他人の痛みも見えては来ない、ということを詩人は感じていた。

    「野」に迷い、深く自分に戻ろうとしたとき、「ブラザ—軒」はまた店を開くだろう。私たちが誠実という言葉に意味を見出している限り、きっと何度でも。そして、ひとは「ブラザー軒」に自分の原点とも言える懐かしい風景を見出すのである、もう一度歩き出すために。

     だから、何度でも「ブラザ—軒」に還ろう。


  • ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(7)

    【戦後にむかえる転機】

     菅原克己は1949(昭和24)年、第2次「コスモス」同人となる。1951(昭和26)年12月には最初の詩集『手』を刊行。1952(昭和27)年、詩誌『列島』の同人となり、1954(昭和29)年に「文学の友」の詩の選者となる。戦後すぐの菅原は活発に意見を述べていく。

     このころを振り返り、菅原は後につぎのように述べている。

     「戦後になって、社会的な昂奮がぼくをつつみ、「死の灰」といえば「死の灰」を、久保山愛吉氏の死といえば、その事件を、ローゼン・バーグ、日鋼ストなど、即座に書いていった一時期があり、むかしのひそやかな抒情詩人は消え、概念的な昂奮で詩の口火を切るようなものがあった。ぼくはその頃初めて他流試合の場所に出、他人に文句をつけ、叩かれたりした。ぼくは気を沈めなければならず、日常の平凡な事物のなかに身をひそめなければならなかった。」※⒇

      その「他流試合」のひとつであるらしい鮎川信夫との「死の灰詩集論争」について、このようにも書いている。

     「1955(昭和30)年、(中略)前年に出された『死の灰詩集』をめぐり論争が起きる。この論争で鮎川の論理性に気づかされるところがあり、詩の本質、方法などを深く考えさせられて、詩作の上で転機となるものがあった。」※㉑

     この時期の菅原についての栗原澪子の論考がある。

     「この、事多かった三年間に、そして菅原さんの詩人としての仕事が一線に出て活発に始められたこの三年間に、菅原さんが書き、発表した作品の多くは、十一冊ある詩集のどれにも収録されない、ということになるのである。」「「ローゼンバーグ夫妻のために」「イ・ヴェ・スターリン」「日鋼赤羽工場」「ぼくらは胸のなかに」「九月二十三日ーー久保山さんの死に」と、この時期の主要な作品を拾ってみると、題名からだけでも作品の傾向は窺い知れると思う」※㉒

     これは重要だ。『列島』や『現代詩』などに菅原が書き続けた詩や評論が「死の灰論争」に直面したとき、その書いたものたちが菅原に根拠の弱さを表し、後に残そうとさせなかった。これを転機として、『日の底』の詩につながっていったことを栗原は指摘している。

     栗原が引いている「むかしの話」に菅原はこの時期のことについてこう書いている。

    「論争に敗けたということではなく、何か自分にある軽率なところから、柄にもないことを続けているという気持ちが出はじめていたのだった。このあたりから、ぼくはすこしづつ変ったようだ。だいたい、最初の抒情時代から僕の詩は自然発生的だったが、そのままで戦後の複雑な社会状況の中に入り、今度は逆に自分の本質をも探ろうとせず、無反省に外に向って、飛び上がった図式的な政治詩を書いたりしたのである。鮎川信夫の批判は、直接的にはぼくの詩に向けられたものではなかったが、ぼくは否応なしに、詩とは何か、ということを考えざるをえなかった。〈自分の痛みなしに他人のことは書けない〉ということをしみじみさとったのもこのころである。」


  • ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(6)

    【築地小劇場とその時代】

     築地小劇場は「一九二四年六月十三日、丸山定夫の開幕を告げるドラの音とともに、(中略)その歴史的な演劇活動をはじめるのである。」※⒂

     日本で最初の新劇の常設劇場であり、プロレタリア演劇の拠点ともいえるのがこの劇場である。

     1931(昭和6)年にプロット(日本プロレタリア演劇同盟)の活動として左翼劇場と新築地劇団が共同で公演をおこなった。それが「風の街」である。杉本良吉がキルションの戯曲を翻訳し、土方与志との共同演出で取り組んだものだ。装置には村山知義、使われる唄の作曲には山田耕筰があたり、俳優陣はゴロヤンに丸山定夫、その他山本安英・細川ちか子・赤城健(東野英治郎)などという当時一流のスタッフで作り上げている。

     内容は、1918年にアゼルバイジャンで起こった「二十六人のコミッサール事件」を、ゴロヤンを中心とした労働者たちの、革命を支えていこうとする奮闘と悲劇の物語として戯曲化したものだ。

    当時、一観客としてこれを観た浅野時一郎が、後に次のような文章を残している。

     「 “風の街 ”とはカスピ海沿岸の石油生産地バクーを言う。いつも風が吹くので有名な街なのである。そこでソ連革命の初期に激しい局地闘争があり、その渦中で二十六人のコミッサールが犠牲になった事件を扱っている、バクーにはアルメニア人、トルコ人、ロシア人が住んでいて、政治的にもボルシェビキ、メンシェビキ、エスエル等の勢力が争っている。そういう事情をプロローグの前に幻灯で説明してくれたが、私にはよく呑み込めなくて、芝居の進行中にふと迷うこともあった。しかし、芝居は面白かった。」※⒃

    また、菅井幸雄は次のように記している。

     「築地小劇場につめかけた観客は、(中略)熱心に舞台と呼応した。口から口へと『風の街』の評判は伝わり、十五日間の公演は、熱気につつまれたという。働く人びとにとって、築地小劇場は生きた教科書となった。」※⒄

     背景をよく理解して、この戯曲を自らの成長につなごうとして受け入れるものから、事情はよくわからないが殺されていく人たちがかわいそう、という詩の少女のような人まで広範な観客を集め、そして公演は成功した。

     菅井によれば、この後官憲は神経をとがらせ、「従来の台本検閲とか上演禁止という上演する側への弾圧を、さらに拡大させて、観客そのものへの弾圧をはじめたのである。築地小劇場に入場しようとする観客の荷物を調べ、身体検査をして、かれらにとって「不法な」文書がみつかれば、直ちに検挙するという手段を行使してきた。観客にとって、プロレタリア演劇を上演している築地小劇場をみるということが、ひとつのたたかいとなったのである。」※⒅

     この7年後の1938年、演出脚本の杉本良吉は、日本にとどまっていることの危険を感じ、女優岡田嘉子と一緒に厳冬の樺太国境をこえてソ連へと逃げていった。革命の夢をいだいて飛び込んでいった先で、しかし翌年、杉本はスパイとして銃殺される。

     また、この公演で中心人物のゴロヤンを演じた丸山定夫は、弾圧の激しくなる中、1945(昭和20)年に日本移動演劇連盟に加わり「桜隊」として慰問巡演活動を始める。そして、疎開先の広島で8月6日の原爆を受け、終戦の知らせを聞いた8月16日に息をひきとる。※⒆

     この時代にもいろんなことがあった。そのいろんなことのひとつひとつを押さえていくことで詩が生命力を持ってくることがある。まるでつぎはぎのパッチワークがひとつの模様を描き出すように。そんなとき、詩は時代の空気を吸って生きていると、そう思う。


  • ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(5)

    【左翼の牧歌時代と初期叙情詩】

     自伝の「詩と現実の間」※⑾によれば、このストライキをして警察に四日間拘留されたりした昭和5~6年のころを「左翼の牧歌時代」と呼んでいる。そしてその後2年ほどのあいだに書いた詩を「初期叙情詩」と名付け特別の思いを寄せている。 その初期抒情詩の一つが「築地小劇場の帰り」※⑿である。詩中に描かれている公演は「左翼の牧歌時代」の昭和6年のもの。後日の回想によればこの詩を書いたのは昭和8年となっている。  そのときお前はいったね、  ああいう人がアカになるのだ、と。  そして  可哀そうな一生をおくってしまうのだ、と。  何にも知らないお前、  素直に育ってきて  憎んだり、争ったりしないことが  一番いいことだと思っているお前。  そういうお前に  このぼくが警察につれて行かれて  どれほど叩かれたかと教えたら  どんなに驚くことだろうか。  雑司ガ谷の、鬼子母神うらは  ほんとにお前が恐がる梟でも啼き出しそう。  その中で  お前の日和下駄が淋しい音をひきずる。  それからぼくは  さっきまで観ていた〈風の街〉のはなし、  銃殺された二六人のコミッサールのことを  話ししてきたのだが・・・。   何故、ストライキが起きるのか?  何故、労働者が資本家にたてつくのか?  それさえもわからないお前だった。  そうして、いつもの林のはずれで  お母さんによろしくというまで、  お前はただ、殺されたゴロヤンに  少女らしい同情を溢れさせていたのだ。         (「築地小劇場の帰り」全)  築地の芝居がはねたあと、少女を送って池袋雑司ヶ谷のあたりにきたとき、日はもう落ちていたのだろうか、ふくろうの鳴くような人気のない寂しいところだった。 少女にとって「アカ」は自ら不幸になっていく人の謂い。人を憎んだりするから不幸になる。みんな仲良く暮らしていけばいいのに。まじめに働いていればきっといいことがある。そんな娘の引きずっているのは「日和下駄」の「淋しい音」。世の中をかえるなんてことはきっと恐ろしいこと、考えてはいけないこと。 だから、風の街のコミッサールが意味していること、築地小劇場で新劇を見ることが意味していること。そういうことを娘はわかろうとしてくれない。 この詩について、後に菅原はこう述べている。「「築地小劇場の帰り」に出てくる娘は、他の作品「しぐれ」※⒀にも出てくる子で、太平洋戦争前に親と一緒にサイパンに行き、そこで病気になり、内地に帰って死んだ娘である。戦前の薄命な女の子の、ひ弱そうなうす手の顔にかかった髪の毛や、メリンスの元禄や、黄色い兵古帯など、当時の面影がふっと浮んでくることがある。」※⒁ 「しぐれ」は第一詩集の最初におかれており、少女によせる詩人の思いを感じる。