ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(2)

【父】

 詩に描かれた「おやじ」は1923(大正12)年、克己が12才の時に亡くなった父のことだろう。謹厳な教育者だった※⑸という。「ブラザ—軒」と同じ1950年代半ばころに書かれたと思われる散文詩の「亡霊屋敷」※⑹にそんな父のイメージが、こんなふうに表現されている。

 「羽織袴の、大きな八字髭をはやした、肥満してはいるが如何にも疲れ切った男」そして、「懐から三つ折りの奉書紙をとり出す」

 これはおそらく父の死の時の様子を克己がイメージしたものだ。「セピア色の肖像」(詩集『陽の扉』所収)には「教育者らしく/東北のかたすみの女学校の、/朝の訓辞の最中に/壇上で倒れた。」とある。

 生徒や他の先生方を前にして、訓辞のために懐から三つ折りの奉書紙を取り出したところで倒れ亡くなった、という克己の中にある父の死のイメージだ。ここでの父には緊張と恐怖が感じられる。

 その父が「ブラザ—軒」では「小さい妹をながめ、/満足気に氷を噛み、/ひげを拭く。」目の前で、今は心おだやかに過ごしている父の姿は、そうであってほしいという克己の願望でもあろう。

 

【妹】

この詩の「死んだ妹」のモデルは1919(大正八)年に生まれた、克己とは八才違いの妹みどりだと考えられる。詩集『手』※⑺には1951年5月に若くして亡くなったその妹に関する詩が数編収められている。結核で入院し、離れて暮らす子どもを心配している様子や亡くなったときの様子などが描かれている。その中から「告別」と題された詩の一部を引く。

 

子供の時から

耳が聞こえなかったり、

病気をしたり、

空襲や大水で逃げ廻った妹が、

こんどは死に出会った。

あれほど、泣いたり、

苦しんだりした妹が、

今は一本の棒のようになって

担架に乗って、

三十二年を、

やっと、

静かな世界に出かけて行った。(「告別」部分)

 

病弱だった妹が、ようやく戦争が終わり平和な世の中となり、これからは家族とともに幸せになれるかと思ったのに、ひとり死んでいかなければならなかった。

自伝的小説『日の通い路』※⑻に描かれたセツもこの妹の思い出だと考えられる。

1945(昭和20)年のころ、「病身の妹セツは、神奈川の田舎にある夫の実家に疎開していたが、昨年こどもを生み、この四月から葛飾の夫のもとに帰っている。」とある。それをもとに考えると、結核で最後の入院をした時のみどりには7才くらいの子供がいたということになる。

「はげしい空襲の下で、病身の母親から生まれた赤ん坊は、なにごとも知らず。まるまる肥っている。この小さな一箇の生命は、神から授けられたもののように、戦争の恐怖のなかで健やかに育ち、生きている。そしてこれが病身のセツの子だ、セツの分身だと考えると切なくなるのであった。」

病弱の妹が、この先戦火をくぐり抜け、この子を育てることは無理だろうという切ない思い。

とすれば、それは「ブラザ—軒」に重なり合っていく。小さな子を残して死んだ父の切なさであり、小さいときに父と死に別れてしまった妹の切なさであり、同時に自分の子どもとも離れていかなければならない母としての切なさであり、それをすべてみてきた「ぼく」の切なさなのである。 

せめてその行く先は「静かな世界」であってほしいと願う詩人の思いが、家族みんなで楽しく過ごした幼い頃の仙台の記憶につながり、妹をまだ不幸を知らぬ幼いときの姿そのままに、その妹の育つ姿を見ることのかなわなかった父の所に行かせたいと、詩を書かせた。それは、自分の詩や活動に疑問を覚え、無意識に原点に返ろうとしていた菅原克己の自然な願いであったと思っている。


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