ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(3)

【映画的ブラザ—軒】

 堀川正美は現代詩文庫『菅原克己詩集』※⑼の解説の中で「ブラザー軒」について次のように述べている。

 「たなばたの夜とはいっても、これはほぼ同時季のお盆の精霊祭のイメジ、死者の霊の迎え送りにかかわるイメジであるが、ガラスのれん(のれん、に傍点)がキラキラ波うち、あたり一面氷を噛む音、外はまっくら闇という、絶妙な効果はいうだけ野暮であろう。」精霊と生者が自然に触れ合える世界。そこに理屈はいらない、ということか。

 しかし、残念なことに言わないとわからない野暮な私は、もうしばらく言い続けてみるのである。

 この詩は映画だ、と私は感じている。それも映写機の音がカタカタと響くモノクロの無声映画。シナリオのト書きのような詩句を読み進めていくことで、読者それぞれの映像を詩というスクリーンに浮かびあがらせている。スクリーンをはさんで、すぐ近くにいるのに交わりあうことのない世界を作りあげている。

多くの客がいる店内から、しかし談笑する声は聞こえてこない。聞こえてくるのは「氷を噛む音」と「風鈴の音」。描かれているものは「ガラス簾」「氷のかけら」「風鈴」。外は「闇」。無機質で硬質で、生とは縁遠く乾燥した印象だ。

そう「メリンスの着物」は「色あせた」ものだし、「ミルクセーキの音」はびっくりした妹を映し出すためだけにある。

「亡霊屋敷」では緊張とつながっていた父が、この「ブラザ—軒」ではひたすらににこやかな安定感を持っている。妹はそんな父と過ごしていることに疑いも不安も感じていない。

 日常生活の中にまだ戦争が入り込まず、世の中が少しだけゆったりとしていた頃の、おそらく大正末期の仙台。静かな、そして心柔らかくなる七夕の夜。父と妹との幸せな記憶。

 もちろん、目の前に描き出されたおだやかな父と妹の幸せそうな情景は、それが失われていくものだからこそ、悲しく懐かしい世界として共感を呼ぶ。それが失われているということを「ぼく」は知っているからこそ、オルフェウスならぬ「ぼく」はスクリーンの向こうのふたりを静かに見送るしかない。いつまでもその穏やかな幸せが続くようにと願いながら。


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