ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(6)

【築地小劇場とその時代】

 築地小劇場は「一九二四年六月十三日、丸山定夫の開幕を告げるドラの音とともに、(中略)その歴史的な演劇活動をはじめるのである。」※⒂

 日本で最初の新劇の常設劇場であり、プロレタリア演劇の拠点ともいえるのがこの劇場である。

 1931(昭和6)年にプロット(日本プロレタリア演劇同盟)の活動として左翼劇場と新築地劇団が共同で公演をおこなった。それが「風の街」である。杉本良吉がキルションの戯曲を翻訳し、土方与志との共同演出で取り組んだものだ。装置には村山知義、使われる唄の作曲には山田耕筰があたり、俳優陣はゴロヤンに丸山定夫、その他山本安英・細川ちか子・赤城健(東野英治郎)などという当時一流のスタッフで作り上げている。

 内容は、1918年にアゼルバイジャンで起こった「二十六人のコミッサール事件」を、ゴロヤンを中心とした労働者たちの、革命を支えていこうとする奮闘と悲劇の物語として戯曲化したものだ。

当時、一観客としてこれを観た浅野時一郎が、後に次のような文章を残している。

 「 “風の街 ”とはカスピ海沿岸の石油生産地バクーを言う。いつも風が吹くので有名な街なのである。そこでソ連革命の初期に激しい局地闘争があり、その渦中で二十六人のコミッサールが犠牲になった事件を扱っている、バクーにはアルメニア人、トルコ人、ロシア人が住んでいて、政治的にもボルシェビキ、メンシェビキ、エスエル等の勢力が争っている。そういう事情をプロローグの前に幻灯で説明してくれたが、私にはよく呑み込めなくて、芝居の進行中にふと迷うこともあった。しかし、芝居は面白かった。」※⒃

また、菅井幸雄は次のように記している。

 「築地小劇場につめかけた観客は、(中略)熱心に舞台と呼応した。口から口へと『風の街』の評判は伝わり、十五日間の公演は、熱気につつまれたという。働く人びとにとって、築地小劇場は生きた教科書となった。」※⒄

 背景をよく理解して、この戯曲を自らの成長につなごうとして受け入れるものから、事情はよくわからないが殺されていく人たちがかわいそう、という詩の少女のような人まで広範な観客を集め、そして公演は成功した。

 菅井によれば、この後官憲は神経をとがらせ、「従来の台本検閲とか上演禁止という上演する側への弾圧を、さらに拡大させて、観客そのものへの弾圧をはじめたのである。築地小劇場に入場しようとする観客の荷物を調べ、身体検査をして、かれらにとって「不法な」文書がみつかれば、直ちに検挙するという手段を行使してきた。観客にとって、プロレタリア演劇を上演している築地小劇場をみるということが、ひとつのたたかいとなったのである。」※⒅

 この7年後の1938年、演出脚本の杉本良吉は、日本にとどまっていることの危険を感じ、女優岡田嘉子と一緒に厳冬の樺太国境をこえてソ連へと逃げていった。革命の夢をいだいて飛び込んでいった先で、しかし翌年、杉本はスパイとして銃殺される。

 また、この公演で中心人物のゴロヤンを演じた丸山定夫は、弾圧の激しくなる中、1945(昭和20)年に日本移動演劇連盟に加わり「桜隊」として慰問巡演活動を始める。そして、疎開先の広島で8月6日の原爆を受け、終戦の知らせを聞いた8月16日に息をひきとる。※⒆

 この時代にもいろんなことがあった。そのいろんなことのひとつひとつを押さえていくことで詩が生命力を持ってくることがある。まるでつぎはぎのパッチワークがひとつの模様を描き出すように。そんなとき、詩は時代の空気を吸って生きていると、そう思う。


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