ブラザ—軒に還る ― 菅原克己パッチワーク(7)

【戦後にむかえる転機】

 菅原克己は1949(昭和24)年、第2次「コスモス」同人となる。1951(昭和26)年12月には最初の詩集『手』を刊行。1952(昭和27)年、詩誌『列島』の同人となり、1954(昭和29)年に「文学の友」の詩の選者となる。戦後すぐの菅原は活発に意見を述べていく。

 このころを振り返り、菅原は後につぎのように述べている。

 「戦後になって、社会的な昂奮がぼくをつつみ、「死の灰」といえば「死の灰」を、久保山愛吉氏の死といえば、その事件を、ローゼン・バーグ、日鋼ストなど、即座に書いていった一時期があり、むかしのひそやかな抒情詩人は消え、概念的な昂奮で詩の口火を切るようなものがあった。ぼくはその頃初めて他流試合の場所に出、他人に文句をつけ、叩かれたりした。ぼくは気を沈めなければならず、日常の平凡な事物のなかに身をひそめなければならなかった。」※⒇

  その「他流試合」のひとつであるらしい鮎川信夫との「死の灰詩集論争」について、このようにも書いている。

 「1955(昭和30)年、(中略)前年に出された『死の灰詩集』をめぐり論争が起きる。この論争で鮎川の論理性に気づかされるところがあり、詩の本質、方法などを深く考えさせられて、詩作の上で転機となるものがあった。」※㉑

 この時期の菅原についての栗原澪子の論考がある。

 「この、事多かった三年間に、そして菅原さんの詩人としての仕事が一線に出て活発に始められたこの三年間に、菅原さんが書き、発表した作品の多くは、十一冊ある詩集のどれにも収録されない、ということになるのである。」「「ローゼンバーグ夫妻のために」「イ・ヴェ・スターリン」「日鋼赤羽工場」「ぼくらは胸のなかに」「九月二十三日ーー久保山さんの死に」と、この時期の主要な作品を拾ってみると、題名からだけでも作品の傾向は窺い知れると思う」※㉒

 これは重要だ。『列島』や『現代詩』などに菅原が書き続けた詩や評論が「死の灰論争」に直面したとき、その書いたものたちが菅原に根拠の弱さを表し、後に残そうとさせなかった。これを転機として、『日の底』の詩につながっていったことを栗原は指摘している。

 栗原が引いている「むかしの話」に菅原はこの時期のことについてこう書いている。

「論争に敗けたということではなく、何か自分にある軽率なところから、柄にもないことを続けているという気持ちが出はじめていたのだった。このあたりから、ぼくはすこしづつ変ったようだ。だいたい、最初の抒情時代から僕の詩は自然発生的だったが、そのままで戦後の複雑な社会状況の中に入り、今度は逆に自分の本質をも探ろうとせず、無反省に外に向って、飛び上がった図式的な政治詩を書いたりしたのである。鮎川信夫の批判は、直接的にはぼくの詩に向けられたものではなかったが、ぼくは否応なしに、詩とは何か、ということを考えざるをえなかった。〈自分の痛みなしに他人のことは書けない〉ということをしみじみさとったのもこのころである。」


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