【ブラザー軒に還る】
さて、戦後しばらくの間自分を見失っていたという自覚をもった彼は、その後どのように詩と向き合っていったのか。私は『日の底』にいくつかの方向をみる。ひとつは「ブラザー軒」、そしてもうひとつは「野」だ。※㉓
小麦は
こそばゆい穂さきをしきりにうるさがり、
雲雀はまだ土くれのなかで
誇らしげな自分の声に追いつこうと
せっかちに喉毛をふるわす。
そこでは、黒い地べたでさえ、
空は自分だと考えている。
そして、ぼくは気づく、
決して見ることのできぬ背後で、
道が道自身を帯のように巻きながら
ぼくの通過をすばやく消してしまうのを。(「野」部分)
自分の中に自分ではないものがある。または自分ではないものが自分だと思えてしまう。自分は何なのか、自分のいるべき場所はどこなのか。その不安の所在と理由を考え抜こうとしてこの詩はある。自らと深く向きあおうとしているが、まだその不安にとりつかれたまま身動きできなくなっている。「野」は当事者としてその苦しみを表現する。
もう一つの方向が「ブラザ—軒」だ。この詩では、「ぼく」は、どこにも行こうとしていない。「ふたり」との間に親しみはあるが、あらかじめ切りはなされていることを理解している。離れていく悲しみを耐える意識がはっきりしている。去って行くふたりとはちがう道、ちがう時間に取り残される自分の意識がみえる詩だ。そして、新しい道に一歩を踏み出すための決意をゆるやかに指し示すものだ。
ここにあげた二つの詩は、まさに〈自分の痛み〉と正対しようという意識のもとで生まれてきたものだ。自分の痛みとは何か、それはどこからきたものなのか。その問いに誠実に向きあう時、この詩たちが生まれてきた。
つまり、自分を見失っていたという苦しい事実に正対することでしか、ほんとうの自分にはたどりつけず、もちろん他人の痛みも見えては来ない、ということを詩人は感じていた。
「野」に迷い、深く自分に戻ろうとしたとき、「ブラザ—軒」はまた店を開くだろう。私たちが誠実という言葉に意味を見出している限り、きっと何度でも。そして、ひとは「ブラザー軒」に自分の原点とも言える懐かしい風景を見出すのである、もう一度歩き出すために。
だから、何度でも「ブラザ—軒」に還ろう。